「お金」ってそもそも何だろう? 〜クリシン経済人類学が教えてくれる「物々交換・貨幣・市場」の本当のすがた

新型コロナウイルスのパンデミックで、資本主義経済が大きな曲がり角を迎えているという声をよく耳にします。

これまでのような経済成長、そのベースにある発展志向そのものが、もはや頭打ちの「古い価値観」へ変わろうとしているのかもしれません。

ここで改めて問いたいのは、「そもそも経済とは何なのか?」ということ。

一般的には、古い時代の自給自足、物々交換のシステムが徐々に発展し、そこに貨幣(お金)が介在することで市場が生まれ。。。

こうした市場が近代に入ってさらに巨大化し、徐々にお金がお金を生むような金融工学のようなものが生まれるに至った

。。。経済に対してこんなイメージを持っている人が多いと思いますが、果たして本当でしょうか? 

このあたりの認識がずれていたら、「これから世の中はどうなるのか?」、肝心な部分の見通しも誤ってしまいかねないですよね?

そんなことを思いながら、以前僕が担当した、経済人類学者・栗本慎一郎さんの本(「ゆがめられた地球文明の歴史」)を読み返していくと。。。ちょうどドンピシャなくだりが目に飛び込んできました。

「いやあ、栗本先生の理論は、やっぱりすごいな〜!」

と改めて実感。こういう発想で経済について、お金について考えたこと、ほとんどの人がないんじゃないかと思います。

以下、時々勝手な注釈を入れながら関連箇所を抜粋していきましょう。

皆さんは、世の中の交換はもともと物々交換であって、その連鎖から貨幣が生まれ、やがて市場が出来たという話を何べんも聞いている。

実はマルクス経済学の祖マルクスがそう言ったのだ。(中略)実はこれこそ、我が経済人類学が正面から問題にし、批判してきた「嘘」である。

なぜ物々交換からは貨幣が生まれないか。

ある人が上着を一枚持っていて、それでりんご百個と交換したとする。それはそれで交換が成立したとしてよい。

で、その次の日、彼は上着二枚を持ってきて、はたしてりんご二百個を獲得出来るか。それは出来るとは限らない。

もし出来る保証があるなら、それはそこに市場があるからである。

つまり物々交換は単純で単発的な交換であるだけのことであって、一定の水準の代価が予定出来るのはそれを保証する制度であるところの市場がなくてはならない。

その市場があって、初めて、今度はいろいろな商品を持つ皆が自分の商品の代価(または等価)として共通に求める物が登場することになるのである。

「ゆがめられた地球文明の歴史」より

要するに、物々交換は物々交換として存在し、そこに市場が生まれることもあるけれども、絶対のつながりはないということでしょう。

物々交換、市場、そして貨幣。。。このあたりがごっちゃになって、何となく「経済」というものが語られてきた感がありますが。。。

歴史的に本当に起きた事実はこうである。

共同体に萌芽的ながら市場が形成されると、そこで食料や布などの基本的物資の交換が行われる。市場は普通はそれ以上に発展しない。

そこで基本的物資以外の交換が行われるのは内部からの力でない。共同体の外との関わりによって市場が拡大されるからである。

生産物に余剰が出来たから市場がそれに対応して発展するものではない。余れば、普通は消費せず、過剰分は取っておいて祭りなどの非日常の場と時間で消費するだけだ。ただその消費の規模は、当然、日常のそれよりもひどく大きい。この大きな消費をわれわれは蕩尽と呼ぶ。いわゆる過剰の蕩尽である

「ゆがめられた地球文明の歴史」より

余ったものは非日常の場で蕩尽される。。。この「過剰ー蕩尽」理論こそが、経済人類学の根幹、いわゆるパンサル理論にあたるわけです。

財が余ったら、それを使って市場を広げようとか、現代に生きる我々にとってはおそらくそうした発想のほうが当たり前でしょう。

でも、文明化する以前のネイティブな社会では、余剰(過剰)は蕩尽されるべきもの、そこで快を得て共同体を蘇生させる。。。こうしたハレ(非日常・祭り)とケ(日常)の循環のなかで生が営まれていたのが普通だったわけです。

発展を志向しない彼らが遅れていて、志向する近代人・現代人のほうが進んでいる、優れているとか、単純には言えないですよね?

消費は自然に拡大したり、建築にまわされたりはしない。人類は、そういう自然発展という文化をもともと持ってはいなかったのだ。逆に成長発展より安寧静止を選び取って暮らしていく経済を本来の姿としている。

だから当然、どこの歴史でも単純な経済から複雑な経済へと自然に発展したためしはない。でも、そのように書いてある歴史書は山のようにあって、それが私たち経済人類学をいら立たせてきたものだ。

事実として貨幣は王とか宗教的権威によって(姿の見えない神の場合も多い)市場に投入された。よって交換がなくとも別の理由で貨幣が登場することも良くある。

貨幣に交換手段としての機能だけでなく、価値尺度や、(宗教的)支配手段や、計算手段などのほかの機能があるのはこの理由からである。

「ゆがめられた地球文明の歴史」より

ここでようやく貨幣の話が出てきました。

市場と結びつかない貨幣なんて、現代人はほとんどピンと来ないかもしれません。

でも、貨幣の起源は神への供物であり、それはすなわち、「贈与に対する返礼=支払い手段」にあったと考えられます。

以下、引用元が変わりますが。。。

古代社会では、王は集めた富を民衆に再分配する義務を負い、それゆえに宗教的権威を保っていました。要は、与えることで相手を圧倒し、権威を得るわけですが、与えられた側はそのままでは立場が不安定になるため、受け取った負荷を払いのけようとします。

「この払いのけ、支払いは、宗教上、神に対する債務を祓いきよめるお祓いと同根だ。(中略)だから、貨幣的物在が登場したとき、間違いなくそれはまず支払いの手段である」(栗本慎一郎・編著『経済人類学を学ぶ』有斐閣)

神様に祈りを捧げるということは、それを権威と認め、祈ることでなんらかの恩恵を得ることを意味します。

その受け取った恩恵に対する支払い(=お祓い)の手段として、それぞれの共同体の中で通用する物在が貨幣(供物)として用いられました。

地域によって貝であったり、魚のキバであったり、穴の開いた平たい石であったり……さまざまなバリエーションがありましたが、日本ではそれが稲束=コメであったということです。

「FOOD JOURNEY」第4章〜貨幣となった「聖なるコメ」より

そう、貨幣=交換手段ではなく、宗教的な支払い手段であったと考えられるわけです。

お祓いは支払い。。。言葉にもその名残は残っていますが、ここにはもちろん市場も関与してはきません。

交換すること、市場が生まれること、貨幣が用いられること、それぞれがバラバラに存在しているのが普通だったのです。

そしてこれらの複数の機能は、今は一つの物の上に乗っているが、もともとは機能一つ一つが別々の物の上に乗っていた。これを経済人類学でははっきり区別して、全目的の貨幣と限定された目的の貨幣と分けて呼んでいる。

現在の世界には全目的の貨幣しか見えないが、現実には未だ限定された目的の貨幣が様々な場に限定されて残っている。

ただし、世界経済の中心は近世にヨーロッパが市場のみを中心にした世界に変化し、いわば病的な市場社会にしてしまった。そして、その中心に貨幣がある。

よって、物々交換が経済発展の基礎になったことはないし、そこから貨幣が生まれて行ったこともない。更に、生産の余剰が都市を生んだということもないのである。余剰すなわち過剰は、ただ蕩尽されたのである。

「ゆがめられた地球文明の歴史」より

ターニングポイントは、近世〜近代にあったということでしょう。

栗本先生は、人類は「病」にかかることで、静止安寧、同じ日常が続く「平和な社会」から抜け出し、拡大発展を志向するようになったと、別のところで語っています。

それは「拡大発展病」と呼ばれ、その起源は古代メソポタミア、シュメールの時代までさかのぼれる(さらに源流をたどっていくと南シベリアにまで行き着く)ことを論証していますが。。。

要は、病がじわじわと蔓延して、その過程で「ヨーロッパが市場のみを中心にした世界に変化し、いわば病的な市場社会にしてしまった」。

日本では江戸時代が該当することになりますが(栗本慎一郎「幻想としての経済」所収「病にかかった江戸時代」参照)。。。いびつに肥大化した市場社会が生まれ、そこでお金(複数の機能を統合させた貨幣)が使われはじめた。

そして、近代以降、現代に至るまでそれが自己成長していき。。。

つまり、僕たちが当たり前だと思っている市場社会(資本主義社会)は、歴史のなかで決して当たり前ではなく、むしろ異常なものだったと言えるわけです。

「お金は魔物だ」と言われているのも、肥大化した市場社会の象徴として人を支配し、巻き込むようになったから。でも、お金の起源を考えていくと、お金自体に罪はない(決して魔物なんかじゃない)ことも見えてきます。

市場社会におけるお金には人の心を幻惑してしまうような魔力が確かに働いていますが、本来は「神様への捧げ物」だったわけです。

資本主義経済が大きな曲がり角を迎え、自粛という強 制的な形で経済の流れに大幅なブレーキがかけられている状況下、

コロナが終息したら経済をV字回復へ!

というモードに果たして引き戻せるのか? 過剰な経済成長が地球の環境バランスを崩し、ウイルス・パンデミックが引き起こされたという図式をふまえたら(→こちらを参照)、そのモード自体、成り立たない気がしませんか?

そう、コロナの終息というよりも、「拡大発展病」の終息。。。

その大きなパラダイムシフトのなかで本来のお金の意味も問い直され、あたらしい形での交換手段、支払い手段、そして市場が生まれるのかもしれません。

言うなれば、経済の多様性。

その流れはすでに生まれていますが、今後加速化していき、多様性が生まれるほどにお金の幻想が失われていく。。実際、もうマジックに気づき、手品のタネが見えてきた人もいますよね?

拡大発展病という不治の病から蘇生した人たちがつくる社会、そこではどんな「お金」が生まれるか? 成功イメージそのものがどう変化するか?

僕自身、すでにいろんなイメージが浮かんでいるので、機会を改め書きたいと思います。

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